夢乃舎はテーブルに向かい、書類の記入欄を埋めていた。自身の氏名、現住所、勤務先と埋めていき、一番下の欄。
「……」
『同居人』の欄に、夢乃舎は香月の氏名を含めた情報を、さらさらと書き連ねていった。
夢乃舎が気に入っている香月が、再び悪夢に囚われ、あまつさえ夢乃舎の目の前で異界に連れ込まれたのは、長雨が随分と続いていた頃合いの話だ。夢乃舎が当然のように後から飛び込んだ異界は、水の中。香月と手を繋いだままでなければ息も出来ないその中で、二人はお互いにそれなりに散々な目に遭ったものの。一応は、五体満足で戻ってくることが出来たのだった。
――現実に戻って来た直後の香月の声が出ないことで、夢乃舎が「ぼくの家に囲い込もうかな」と告げたのは、けして冗談などではなかった。
香月と”そういう”ことをするようになったことで、以前と比べれば随分と頻繁に顔を合わせるようになったとはいえ、会社勤めをしている夢乃舎と、大学院に通いつつアルバイトをしている香月では、どうしたって会うために都合を付けるのには難しい部分もある。
夢乃舎とて、香月の本分である学業に差し支えるようなことをさせたいわけではないし、香月は香月で夢乃舎の仕事に差し障るようなことは遠慮してしまう。
……ならば、共に暮らしてしまえばいいのだ、と考えた夢乃舎は、香月の了承を取った上で、こうして二人で暮らすための家の賃貸契約を結んでいるのだった。夢乃舎がこの手の手続きを引き受けているのは、偏に自身が会社員であり審査や保証の点で通りやすいだろう、という予想の元だった。
実際、血縁関係にない二人での入居ではあったが、何ら問題なく不動産屋には話が通っている。入居申込書と賃貸契約書を出せば、来週頃には鍵を受け取ることが出来るだろう。そうすれば、互いに引越しの準備を進めるわけだが。
「『ベッドは処分しな』の意味、多分分かってないんだろうねぇ、アイツ」
夢乃舎は『間取り:3LDK』と書かれた入居申し込みを撫ぜつつ、く、と小さく笑い声を零す。やや不思議そうな様子を見せつつも夢乃舎の言葉に納得した香月は、まさか夢乃舎が二人の寝室を分けることなく――あまつさえ、ベッドを一つにするつもりであるなど、考えてもいないのだろう。
香月が異界から夢を通して誘われるのであれば、当然その様子を確認出来なければならない。となれば、夢乃舎と香月が同じベッドで寝なければ異変の察知など難しいだろう。そういう理論で以て、夢乃舎は香月を丸め込むつもりでいた。勿論、その理由も嘘ではない。
(……ま、同じベッドで寝てる方が抱きやすいのも本当だけど)
偶然であるのか、夢乃舎が香月を抱いたタイミングでは異界からのちょっかいが起きないので、あながちおかしな選択でもないだろう。夢乃舎としては、少なくとも香月を納得させられれば良いので、「ま、もしもの時は抱いて押し切るかな」と結論付けると、既にベッドの注文と支払いを済ませた家具屋へと、連絡を入れ始めた。
セミダブルの素材にも拘ったベッドは、非常に寝心地が良いものだろう。……勿論、”そういう”ことをするのにも耐えうる程度に、頑丈でもある。
――一週間後の日曜日。
不動産屋から新居の鍵を受け取った夢乃舎は、香月にも鍵を一本渡すために、香月を待っていた。互いに自室にする部屋の広さを見た上で、持ち込む家具と処分する家具の選別をするためだった。寝室については、実際に引っ越した日に教えてやるつもりでいる。
夢乃舎がちら、と時計に視線を落としたタイミングで、ぱたぱたとした足音が夢乃舎へと駆け寄ってくるのが聞こえ、香月が息の上がった声で謝罪の言葉を夢乃舎へと向ける。
「……夢さんっ、ごめん、遅れた」
「いいよ、別に。後が押してるわけでもないんだし」
「まぁ……そうかもしれないけど」
「ほら、行くよ、香月」
「……うん」
夢乃舎が視線だけで行き先を促せば、香月はこくりと頷いて夢乃舎の後を追ってきた。
夢乃舎と香月のそれぞれの職場や学校からの距離も程よい場所にあるマンションは、周囲もさほど騒がしくなく治安も悪くない。家賃自体も相場程度のそれであって、折半することを前提にしても、香月の月々の負担としてはそう変わらない――という風に、夢乃舎は説明している。
(引き落としはぼくの口座だし、香月に賃貸サイト検索でもされない限りは気付かれないかな)
夢乃舎は、全ての名義を自身のものとしたのをいいことに、かかった費用の手出しについて、当然のように自分が多くするように計算していた。
夢乃舎は香月を囲い込むことも吝かではないが、それは「香月が損なわれない」というのが大前提である。諸々の条件を組み合わせた結果、どうしても妥協できずに上がった出費は、夢乃舎が持つのが当然だろう。何も、夢乃舎は香月が金銭的な理由で以て夢乃舎から離れられない、という不可抗力の囲い込みをしたいわけではないのだから。
(香月、お前が、お前の意思でもって、ぼくのところに来てくれるのが、いいんだからさ)
エレベーターを使い、該当の階へと上がり、廊下を少し進んだところに、二人の新しい新居がある。
夢乃舎はカバンから鍵を取り出すと、錠へと差し込み、かちゃりと回す。ドアを開け、香月の方を見やった夢乃舎は口の端をゆるく上げつつ、きちんと確認をした。……あくまでも、強制などない、自由意思でこの家に入ってもらうために。
「……さ、香月。入りな。ぼくたちの新しい家だよ」
ナチュラルに囲い込みが進んでいく図。