柵の扉はもう閉じた

 やや所在なさげに立っている香月を見ながら、夢乃舎は薄く笑いつつ爪先でトントンと自身が座る椅子の足元にあるカーペットを叩いた。その音に、香月が視線を向けたのを確認した上で、夢乃舎は言葉を――コマンドを告げる。
「香月、ここにKneel」
「ぁ、……うん」
 香月はまた一つ視線をうろ、と彷徨わせはしたものの、些かのろのろとした動きではありつつも夢乃舎の近くまでやって来ると、指し示したそのカーペットの上にぺたりと座り込む。夢乃舎はそんな香月の顎先を指で掬うと、己の腿へと誘導してみせた。その動きに従順に従った香月が、夢乃舎の足に凭れるように緩く重みを掛けたのを確認したところで、夢乃舎は僅かに甘やかさを滲ませながら更に言葉を紡いだ。
「ん、香月いい子。Good boy」
 夢乃舎の台詞に、香月の瞳がゆるく蕩ける。


 ――"異界"なる存在のことを、夢乃舎はつい最近まで知る由もなかった。

 まぁ大々的に知れていいものではないとはいえ、それなりに顔の広かった夢乃舎の交友関係の範囲内でそのような話を聞く機会も、体験したという知人がいた気配がなかったのも、些か不思議な部分ではある。……夢乃舎がさして興味を示さなかった中にあった可能性は、なくはないのだが。
 それを夢乃舎が知るに至ったのは、大学在学時にバイト先でよく一緒にシフトに入るようになってから、交友を今に至るまで続けていた香月と共に、異界の館に取り込まれたというのが切っ掛けだったのだが。
 その中で、香月と仲睦まじく暮らしているという一切覚えのない――それでいて甘美な記憶にぐらぐらと思考を揺らされながら。夢乃舎以上に館の記憶が侵蝕してきているであろう、香月のとろとろと甘ったるい情の滲んだ声に、夢乃舎は僅かに正気と理性が残っていた頭の片隅で、思ったのだ。
(あぁ、コイツのこと、囲おう)

 夢乃舎はこれまで、他者に対する興味関心などなかった。第二性はDomであったものの、誰かしらを支配したいだとか、はたまた従わせたいだとか、そういったことが頭に浮かんだことはなかったのだ。むしろ、誰であろうと線を踏み越えることも、踏み越えさせることもしたくないとすら思っていたというのに。
 そんな夢乃舎の唯一の例外にあるのが、香月閏という男だった。何が琴線に触れたからかは、流石に夢乃舎の記憶の中ではもう遠いものだ。だが、夢乃舎は香月に対しては無償で手を貸しても良いと思う程度には、彼を気に入っていたし。だからこそ、香月の周囲で香月を損ない得るような人間に関しては、事前に手を回して香月に近付かせないようにしていたのだった。
 そこにあったのは、別段独占欲というものではない。夢乃舎が香月を気に入っているからこそ、そのままの香月閏を保つために必要な行為だと思ってやっていただけだ。その結果として、香月の交友関係が狭いままであったのは、些か申し訳思わなくもなかったのだけれど。

 そんな風に、夢乃舎が気に入っている男が、だ。こちらに対して情を傾けていることに、察しが付いたのであれば。しかも、異界の館から持ち帰った指輪を揃いで持ちたい、だなんて言うのであれば。「まぁ、囲ってもいいだろう」という結論に、夢乃舎は至ったのだった。これでSubである香月にパートナーがいればまた少し変わったが、幸いにもパートナーを有していない香月を夢乃舎が囲い込んだとして、双方の合意が取れていれば、問題になることはない。
 元より好悪の区別を付けるのは、夢乃舎にとっては容易いのだ。ましてや、夢乃舎に好意を抱いているであろう香月の、感情の揺れは恐らく当人の自認以上に、夢乃舎にとっては分かりやすかった。だからこそ、夢乃舎は香月の反応を見ながら自宅へと連れ込み、こうして緩く可愛がるような流れまで持ってきていたのだった。


 猫にでもするように、夢乃舎が香月の喉元を指先で戯れに引っ掻いてやれば、また眼鏡の奥の瞳がとろ、と蕩けたのが見える。その反応に、夢乃舎は喉の奥で笑う。
(ココまでぼくに身を委ねて、大丈夫かねぇ……)
 勿論、そうさせているのは夢乃舎に他ならないのだが。当初は夢乃舎に自宅に上がり込むのにも、随分と躊躇いがちだった香月だったが、最近は部屋の中で夢乃舎からのコマンド待ちをしている時以外は随分と落ち着いているようだ。その様子を見ながら、夢乃舎は近くに置いていた箱を手元に引き寄せた。
「かぁづき」
 ゆったりと呼びかければ、僅かに焦点がぼんやりとした香月の赤い瞳が、見上げてくる。……かつての満月のような色は跡形もない。これもまた異界での影響の一種らしく、この色の変化だけは正直なところ夢乃舎にとって惜しいものにあたっていた。
「……なに、夢さん」
 香月の発した声も、少しばかりとろりとしていた。リラックスしすぎて微睡みつつあるのだろう。その場合、この後の反応はどうなるかな、と夢乃舎は思いながら用意していた箱を香月の前まで持ってくる。唐突に現れた箱に、ぱちと香月が瞳を瞬かせた。
「…えぇと、ほんとに何……?」
「香月、お前さぁ」
「えっ、う、うん……」
 香月の戸惑いをスルーし、夢乃舎は箱を開ける。中に入っているのは――ガーネットカラーの革の首輪だ。
「え、」
「ぼくの首輪、付けてよ」
 夢乃舎の台詞に、香月が目を丸くする。
「首輪?」
「そう」
「……ボクに?」
「そうだよ」
「夢さんが?」
「ん、」
 夢乃舎が笑って見せれば、香月の頬がさっと赤く染まる。それでもKneelの姿勢を崩さないのは、夢乃舎からすればいじらしい。はくはくと香月の口が動いているが、言葉は零れ出てくることはない。しかしながら、香月の表情に拒否や拒絶の色が乗っていないことは、明らかだった。だからこそ、夢乃舎は首輪を手に取った上で、香月の名を呼ぶ。
「香月」
「……うん」
「首輪、付けるだろう?」
「……付け、る……」
「ん、イイコ」
 夢乃舎が促せば、香月はそっと着ていたハイネックの襟元を下へとずり下げた。そうしてさらけ出された首元に、夢乃舎は指先で触れる。その動きに香月は僅かに声を漏らしたが、変わらず体勢は保っている。
 未だ、誰も首輪を付けさせていない、まだ誰の柵の中にも入っていない男のその首元に、夢乃舎は首輪を巻きつける。苦しくない程度の長さで穴に金具を通し、パチリと音を立てて止めれば、ガーネットが鮮やかに香月の首元を彩った。夢乃舎は首輪を軽く撫ぜると、また香月へと囁いた。
「香月、これでお前は文字通り"ぼくのSub"だねぇ」

明燈、あまりにもDomの風格がありすぎる。