明かりを眇めてくれればいい

 ガヤガヤと学生たちの話し声でごった返す三号館一階の休憩スペースで、夢乃舎は同じ授業を取っていた女子学生からノートを受け取っていた。ノートをぱらぱらと捲り、異常がないことを確認する。そう滅多なことはないが、念の為だ。
「夢乃舎くんありがと~! たまたま忘れてたから困ってたんだよね」
「いやいや別に。こういうのは"助け合い"だよ。ぼくも、この間小テストの話教えてもらったし、そのお礼」
 夢乃舎が薄く笑みを作ってそう答えれば、女子学生は「そう?」とやや弾んだ声で返してくる。悪い気はしなかったのだろう。そのまま女子学生が「あ、夢乃舎くん今夜ってさぁ」と言葉を続けてきたのに、夢乃舎は制止をかける。
「悪いけど、今日バイト」
「あっ、そうなんだ? 残念~、バイトくらいサボっちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかないかなぁ。ま、また今度誘ってよ」
「分かった~。またね」
「ん、それじゃね」
 ひら、と手を振り女性学生と別れた夢乃舎は、ノートをカバンへとしまい込むと大学を出るために歩き始めた。その道中で、顔見知りから声を掛けられては一声返し、手を振り返しと適度にいなす。四限目というのは、それなりに授業を取っている学生も多いものだから、学内には人の姿が多い。人波がある程度か途切れたところで、夢乃舎はカバンに入れていたイヤホンを取り出し、耳に嵌める。こうすれば、よほど用事がない限りは"知り合い"も声を掛けてこないからだ。

 名前も見ずに適当にダウンロードした邦楽を耳に流し込みつつ、学生街から一つ大通りを挟んだところまで歩みを進めれば、土地の雰囲気がやんわりと変わる。大学生たちに合わせた発展を遂げた学生街とは違い、地元に元々ある家の立ち並ぶ地域は時折どこかの家から漏れる音が聞こえる程度で、騒がしくはなく人影もさして無かった。
 夢乃舎がそうして歩いて十分ほど。立ち並ぶ家の中に紛れるようにして、夢乃舎のアルバイト先が見えてきた。『カフェ・ラルゴ』。れっきとした喫茶店ではあるが、リノベーション物件を利用した店だからか、はたまた表に営業中の看板一つだしていないからか、お世辞にも客で賑わう、という店ではない。とはいえ、なんだかんだ店が畳まれる気配がないあたり、経営に不安はないのだろうけれど。
「おつかれさまです」
「お、出勤か。おつかれ」
 裏口というものが用意されていない店であるが故に、入り口から夢乃舎が入れば常連の客から声を掛けられる。それに会釈を返しつつ、するりとスタッフ用のバックヤードへと進んで、ドアを開ければ特徴的な赤い髪の男がのそのそと着替えを行っていた。
「おつかれさまでーす」
「……あ、お疲れさまです。夢さん」
「香月、おつかれ。そっか、一緒だったっけ」
「うん」
 後ろから夢乃舎が言葉を発すれば、相手が振り返りぺこりと小さくお辞儀をする。それに言葉を返しながら、夢乃舎もまた隣のロッカーの扉を開けた。
 香月閏。少し前から新しく入ったアルバイトの内の一人で、夢乃舎と同じ大学の後輩でもある。どうやら夢乃舎と香月は組んでいる時間割が近しかったようで、同じシフトになることが多かったことが話をするようになる切っ掛けだった。その中で、同じ大学に通っていることが発覚したのだから、とんだ偶然というやつだろう。
「……はぁ」
「香月、溜め息なんて珍しいねぇ」
「いえ。今度、取ってる授業の中間テストがあって。でも、それが結構成績に響くっていうから」
「へぇ。……どの授業だっけ?」
 夢乃舎が問うて香月が返してきたのは、夢乃舎が履修したことのない授業名だった。そもそも夢乃舎の所属する神学部は、些か他の学部とは履修科目の毛色が変わりがちではあるのだが。それに「まぁ頑張れ」と告げかけた夢乃舎は、僅かに思い留まった。
(……ん、いや)
 香月が告げた授業名に、聞き覚えがあることを思い出したからだった。夢乃舎の知り合いの中に、香月が所属する史学部の学生もいる。その中の誰かも確かそういった嘆きを零していたのを、いつだったかの飲み会で聞いたのだった。
「……ぼくの知り合いでその授業取ってた奴いたし、過去問残ってそうならお前に渡そうか」
 夢乃舎がそう香月に言えば、隣の香月が瞬きをする。ゆら、と揺れた月の色の瞳に一瞬よぎった感情は、夢乃舎には読み取れない。
「いいの?」
「別に。というか、貰えるかも分かんないし」
「それでも聞いて貰えるなら、助かる。ありがとうございます、良かった……」
「どーいたしまして。ま、分かり次第連絡するから」
「分かった」
 ほ、と息を吐いた香月よりも先に着替え終えた夢乃舎がロッカーの扉を閉めると、香月も慌てたように支度を整えロッカーを閉める。そうして夢乃舎は香月と共に、いつも通りにアルバイトを開始したのだった。

この時点で既に明燈はまぁまぁ香月くんを気に入っている。