夢にあけぼの

 瞬き一つで"世界"は移り変わるのだ、ということを、ちとせは幼い頃よりよく知っていた。たった一瞬、薄い薄い膜を通り抜ける程度の感覚で以て、容易く塗り替わるそれらは、いつだってちとせの身近に存在していた物だからだ。そして、その"世界"が当然のような顔で堂々と隣人宜しく待ち構えているこの学園が、おかしいと気が付いたのは親族の勧めで入学してから半年ほど経った頃合いのことだった。
 だからこそ、ちとせはそれらの世界を努めて認識しないことにしていた。視てしまえば牙を剥きやすいそれらも、目を逸らしてしまえば多少はちょっかいをかけてこなかったからだ。……それでも、時折ふつりと抜け落ちる何かは、確かにあったのだけれども。


『――――…………』
 夢だ、とちとせには分かっていた。仄暗い闇に、ちとせは立ち尽くしている。どちらに向かえばいいのかも分からない、その中で確かにちとせを待ち構えているモノの存在は知覚出来ていた。
(……昏い)
 ちとせは小さく溜め息を付く。その夢は、幼い頃からいつもよく見ている物だった。仄暗い闇の中、何かに狙われていることだけを、そこで誰にも助けてもらえないことだけをひしひしと実感させられるだけの、そんな夢。……だったのだ、最近までは。
 その夢の内容が、変化を迎えたのはいつのことだっただろう。
『ちとせさん』
 柔らかく呼ばれた名にちとせが視線を上げれば、美しい金色の瞳がこちらを見つめている。
「……白、」
 ひそりと、ちとせが相手の名を呼べば、夢の中の白はちとせへと手を差し出してみせた。

 ちとせが、とうとう異界へと触れ、紛れ込んでしまったのはつい先日の話だった。遠吠えを皮切りに、異界の言語に触れ、異界に囚われた存在に追われ、最終的には物語を付与して呼ばれた存在と相対する羽目になった事態は、ちとせにとって記憶に色濃いものである。
 ひたすらに異界を避けていたちとせは、それ故に異界のモノの前で心を御しきれなかった。足が竦み、異界のものに飲み込まれかける。その度にちとせを助け、守っててくれたのは、ちとせのナイトである白だった。
(私が、巻き込んだのに)
 差し出された白の手を見つめながら、ちとせの心に波紋が広がる。異界の話をしたのは確かにちとせだ。事態の解決に協力を願ったのも。けれど、そうして、ちとせが話をしたから共に異界へと連れ込んでしまった白に、何もかもを任せてしまったも同然だったからだ。異界に触れたためにちとせに起きた異変も、最終的には白の心の何かしらをトリガーに、何事もなかったかのように綺麗さっぱりと消えてしまったのだから。
『ちとせさん、おれのレディ、必ず守りますから』
「……白、私のナイト」
 ちとせは、たった一人、ちとせを助けて守ってくれた己のナイトの手を、夢の中でも同じように取った。夢の中の白が少しだけ微笑むのを、見たのと同時に。


 目覚ましの音と共に、ちとせの意識は浮上した。
「…………、あさ」
 ちとせは、ぼんやりと目を開け、ゆっくりと視線を彷徨わせる。枕元で鳴っていた目覚ましを止め、のそりと起き上がったちとせは、小さく欠伸を噛み殺す。カーテンの隙間から見える景色は、まだ薄暗い。秋も深まってきているために、少しずつ日の出が遅くなっているのが、感じられていた。
 ちとせは小さく伸びをした後でベッドから這い出ると、洗面所へと向かう。そして、またこの後に顔を合わせるであろう己のナイトのことを考えて、小さく笑みを漏らしたのだった。

ちとせにとって、白くんはとても柔らかな光なのだった。