いつかで呪いが解けるなら

 ――脳裏に焼き付いている光景がある。巨大な轍。設計図。砂浜に残る赤い血だまり。星々の煌めき。嬉しそうな少年。布を被せられた人の絵。ビリヤードのキュー。鳴り響く雷。……赤い赤い部屋と、息絶えた人だった"もの"。


 ピーとけたたましく鳴った冷蔵庫の音に、はっと我に返った凪は慌てて目当てのものを取り出して野菜室を閉めた。凪の手にあるブロッコリーは、そこそこの大きさを持つが故に重い。それをまな板の上に乗せ、包丁を取ろうとしたところでバタバタとした足音が聞こえてくる。
「なーぎーくん! 何作るの!?」
 足音が止まると同時に掛かった声に、凪は声の主へと視線を向ける。そのついでに時計を見やれば、そろそろ昼の準備を始めなければ不味い時間だった。冷蔵庫の前で、随分と考え込んでいたらしい。
「ひとまずスープは決めたけど、メインがな……。五日は何が食べたい?」
「えー? じゃあ、あれ! この間ひさねくんが作ってくれたの!」
「この間ぁ? いつだよ、それ……一昨日じゃないなら……」
「鶏の! 鶏のやつ!」
 にこにことした笑顔で五日が告げたワードに、凪の脳内で先週作り置きしたメニューがヒットする。最近作った中で鶏肉を使ったのはそれだけだ。
「鶏肉とキャベツ炒めたやつ?」
「そう! ……って、鶏肉とキャベツあったっけ?」
「あるよ、買ってる。……まぁ、夜は魚にするつもりだったし、いいか」
 凪は冷蔵庫と冷凍庫の中身を思い浮かべ、作り置きする予定の料理メニューまでふまえた上で頷いた。再び冷蔵庫へと戻り、今度は鶏もも肉とキャベツを取り出す。
「やったー!」
「ほら、俺は作るから五日は大人しく本でも読んでな。出来たら呼ぶから」
「……はぁい。……手伝いは?」
「五日がフライパンで火の手を上げない自信があるなら、やってもらおうかな」
「あぅ~~」
 凪の台詞に手伝いを申し出かけていた五日は、そっと手を下ろし些かしおしおとした態度で書庫の方へと戻っていった。以前、凪が五日に手伝いをしてもらった際にフライパンが盛大に燃え上がった件で、流石の五日も料理に関しては己が不向きだと思っているのだろう。
(まぁキャベツを切ってもらうくらいは、と思わなくもないけど。本の続きが気になってそうだし)


 ――五日は、凪からすれば驚くほど、多くのことに対して興味関心を持ち貪欲にそれを求めていく存在だった。

 手際よくキャベツを切っていきながら、凪はぼんやりと思う。
(料理だって、五日の家で作るようになってから覚えたもんな)
 だって、凪にそれほどまでの「衝動」はない。金は必要だから稼いでいるだけだ。食事は必要だから摂っているだけだ。情報と知識は必要だから得ているだけだ。今住んでいる家もセキュリティの兼ね合いで選んだだけで、その部屋が良かったわけではない。凪は、己の人生に「必要」だからそれを手にしているだけで、それが欲しいと思って手に入れたわけではない。
 けれど、五日は違う。知りたい、欲しい、食べたい、行きたい、見てみたい。五日の領域にないものに興味を示し、触れようとし、取り入れようとする。その「欲求」は、凪にはないものだから。だからこそ、五日の傍にいるのは、凪が今まで見たことのない光景を見ることが出来て新鮮で、楽しかった。
 ……まぁ、流石にパンジャンドラムを作りたいだとか、市販の花火を連結させて大きなものにしたいだとかは、凪としても却下せざるを得ないのだが。凪は五日の大抵の行動を好ましいと思ってはいるが、そうは思わない人間がいることだって知っている。だから凪が五日の行動で想定外の事態になるならばともかく、他の人間に何か影響が出そうなことは止めておいた方が無難だろう、という判断だった。
(……俺が止めすぎると、それこそ"あいつら"みたいになってしまう)


 血の臭い。飛び散る赤。ホテルの一室で起きた惨状に対し一瞬言葉に詰まった凪を、五日は気遣わし気に見て、そっと手を握ってきたのを覚えている。そうして凪を気遣ってくれる五日を、凪は守りたいと思ったのだ。あの時は「五日は年下だから」などと言ったが、仮に五日が年上でも同じように凪は考えただろう。
(お前が俺を守る必要なんて、どこにもないよ)
 助手に殺された探偵。「見てもらえない」という犯行理由。
(見てもらう必要がどこにある)
 そうやって、監視してくる人間は、きっと凪に何も許しはしないのに。

『お前を愛しているから言っているんだ』
『貴方のためなの。愛しい貴方のためを思って』

 「愛」は呪いだ。凪はそれをよく分かっている。だから、凪は五日を「愛して」などいない。五日の「やりたい」は凪にとって眩しくて綺麗だ。それらが出来るだけ叶うようにしてやりたい。そう思っていて、そして凪は五日を閉じ込めようなど思ったことはないのだから、凪は五日を愛してなどいない。
 五日はけして、凪を牢獄へと閉じ込める存在ではない。五日はいつだって、凪の手を引っ張って、どこかへと連れ出してくれる存在なのだから。
 だから、凪にとって五日は、ただの「特別」だ。


(スープの具材だけ、また凍らせて置いとくかな)
 凪はそう考えながら、続いてスープに使うブロッコリーへと包丁を刺しこんだ。

凪にとっての五日くんは、自分の部屋に風を吹き込んでくれる、窓を開けてくれる人なので。とても特別なのでした。