尾北・間の両名が、多少の減給などがありつつも戻ってきた後。間は随分と長い期間、他班での職務が主となっていた。否、正確に言えば真野の下での職務が多かった、という状態だ。とはいえ、正所属としては尾北班のままであることには変わりはなく、指揮を執る真野も「まぁ流石に、取り上げるつもりはないからねー」と言っていただけあり、途中からは徐々に尾北班としての仕事も増えてきていたのだが。
時に。激情の炉というのは、大層赤々と燃えるものではあろうが。とはいえ、大貫もここまで来れば多少は冷静になっていた。刈野を散々呑みに連れ出して、話を聞いてもらったおかげである。刈野からすれば、堪ったものではなかっただろうが、それはそれ。間とも職務の合間にどうにか捕まえ言葉を交わし、間の時折矛盾するものの基本的には一貫して繰り返してくる主張を聞き続けたのも理由だろう。少なくとも、当初腹の底に燻っていた「間を完全に己のコントロール下に置きたい」から「間の意思を尊重したい」にまで意識を持って来られたことは、進歩なのではないだろうか。
そうはいっても、花音の襲撃事件からかれこれ一年近くが経とうとしている今でも、大貫と間の双方が納得する関係の落とし所は見つかっていないのだが。
そう考えながら、大貫は今日もまた、間と言葉を交わしているのだった。間は間で、こうして大貫と言葉を交わすこと自体は楽しいようで、大貫に呼ばれれば平然と着いてきては平行線の話し合いを楽しげに繰り返している。
「大貫くんはさぁ、どうしてそこまで僕のこと引き留めようとするのさ。花音さんだっているんだし、別に僕のことくらい、置いていってもいいのに。大貫くんだって、そこまで手を広げられないでしょ」
机の上に腰かけ、行儀悪くふらふらと足を揺らす間が、大貫に問う。既に幾度となく行われた問いだ。そして、いつもであれば、大貫はここで「君を捨て置くつもりなんかないんだが」だとか「花音と間は別だって言っているだろう」だとか告げていた。だが、その日の大貫は、ふと頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口にしたのだった。
「私と君は違う。その上で、私は君がいい。君でなければ、私が嫌なんだ。それじゃあだめなのか」
ぱちり、と間の瞳が瞬く。そして暫く、大貫の言葉に対する返答を考えあぐねたような沈黙の後。
「……だめ……じゃないけど……。……えっと、それは、どういうこと……?」
間の声が露骨に弱まり、瞳に困惑が殊更に強く浮かぶ。ぱたりと間の足が動くのが止まったのとは逆に、大貫の思考が動き出した。
――そう、間でなければ駄目なのだ、大貫は。大貫は、他の誰でもない間がいい。今出てきた言葉は、恐らくずっと前から大貫が間に対して言いたい言葉に違いなかった。……だが、ここで疑問が挟まる。
(いや、待て。なんで間はそこで戸惑う?)
大貫にあれだけの傷を――肉体的にというより精神的にだが――与えておきながら。大貫に対する執着を見せておきながら。どうして今更大貫が間に好意を伝えたことに、ここまで戸惑うのか。
(待て待て待て、まさかなのか……?)
「待った、間」
「うん?」
急に冷静さを取り戻した大貫に、間は首を傾げつつも返事を返す。
「正直、そこまで蒸し返したくはないのだが。間、あの時の君の行動のきっかけとしては、私たちに『見てもらえなくなる』と思ったからだったな?」
「うん」
「で、だ。あの時の君は『つまらない』と感じたら、勝手に自分の命を終えるつもりだった」
「そうだね~」
「……だが、途中から君が方針を転換したのは、私が君に対して激昂したからだ」
「そうそう」
「それは私から見てもらえた、とそう思ったからで合っているよな?」
「そうだね?」
「その上で聞きたいんだが……。つまりそれは君……私からこう、感情を常に向けられたい、ということではないのかい」
「…………うん?」
明らかに間の反応が鈍り、頭上にハテナマークが浮かんだのを大貫は幻視した。
「そして私としては、君にこうして好意を向けているつもりなんだが……。……それを求めていたわけではない?」
「え、えっと……? 大貫くんから……? 僕に……? もう見てくれてるのに、それ以外に……?」
間の瞳は、今の大貫の問いに完全に困惑していることは明白だった。間は、大貫を見つめていられればそれでよかった。そして大貫に見つめ返されたことで喜んだ。それから一歩踏み込んで、「大貫が間に特別な感情を向けている」となった時点で、間の感情処理はキャパシティオーバーを起こしているとしか思えない。
(まさか、そんな序盤も序盤のところで感情認識が止まってるのか……!?)
流石に想定外の状態に、思わず大貫は眉間を指で揉む羽目になった。だが、確かにそう考えれば辻褄は合うのだ。大貫からすれば当然のように置いていた前提を、間が共有できていないのだとしたら。そもそも、そんな風に知覚すらしていなかったのだとすれば。今までのやり取りも、スタート地点と認識そのものが違うのだとすれば、間が大貫の主張を受け入れず、大貫が間の考えを読み取れないのも、おかしな話ではない。
(いや、それにしてもじゃないか?)
間の瞳が混乱でぐるぐると渦巻きつつあるのを見ながら、大貫は口を開く。
「まず、だ」
「うん」
「私は花音が大切だ」
「それは分かる」
「そして、君も花音とは別ベクトルに大切なんだ」
「う、うーん?」
「そして君が私に感情を何かしら向けているように、私だって君に感情を向けている」
「ま、待って……どういうこと?」
(早いな!)
間が早速大貫との問答でつまずいたことに、思わず大貫は声が出そうになるが抑える。なるほど、この段階でつまずくのならば、大貫の想定が凄まじく甘かったということだ。否、今まで間が取り繕うのが上手すぎたのか。
「……間。これは今ここでまとまる話じゃないと、私は判断した」
「う、うん。奇遇だね?」
「そうだよ悲しいことにね! だから、ちょっと仕切り直そう。私も準備する」
「そう、だね……?」
◆
後日。間と顔を合わせた大貫は、真っ先に紙の束を間へと手渡した。
「何これ?」
「思うにだ。互いに文字に残らないまま話すから、話題がループするんじゃないかと思ったわけだ」
「ふむ」
「だから、まず先に私の所感と主張を全てまとめてきた」
「…………なるほど?」
間の表情は些か微妙なものに変化したものの、特にそれ以上何を言うでなく、間は大貫の手渡した紙へと視線を落とす。
大貫が書き連ねてきたことは、今までの主張とさして変わりはない。間が起こしたことに対しては怒っていること、それはそれとして罰を適切に受けたのであれば戻ってくればいいと思っていること、大貫にとっては花音も間もどちらも失いたくないということ、そして何より他の誰でもない間がいいと思っていること。だが、それらに対して大貫なりの根拠と大貫の思考変遷を解説として記載しているが故に、枚数が些か嵩んだのだった。
間は時折首を傾げたりしながらも、一通り最後まで文章に目を通す。
「ん~~……?」
そして、そのまま頭の中で考えをまとめ始めた間は、無意識なのか大貫の手を取り自身の手と絡めて手遊びを始めた。きゅ、指先を絡めてくる動きを見ながら、大貫は思わず脳裏に「可愛いな」と過ぎったのをしまい込み、間の考えがまとまるのを待った。
そうして、そこそこ長い熟考の末、間が口を開く。
――えぇと。まず、前提として。僕と大貫くんは同期で、正直最初は合わないんじゃないかなと思ってたんだけど。……それは大貫くんも同じじゃなかった? そんな顔してる。いや、それはよくて。えっと、まぁ色々あった結果として、僕は大貫くんのこと信頼出来るなと思うようになって、信頼していた。それは、冷静さだとか、感情と理性を切り分けてくるところだとか、色々なとこでね。綺麗だな、眩しいなって思っていたし……あと大貫くんの顔も好きだし。
「初耳なんだが?」
間の話には相槌のみを打つつもりでいた思わず大貫が言葉を挟むと、間がきょとりとした表情を浮かべる。
「えっ、言う必要ある?」
「いや君それは……。……あぁいや、続けてくれ。そこについては後から聞く」
「? うん」
大貫が、間に取られている方とは逆の手で間を促すような仕草をすれば、間は僅かに首を捻ったものの、さらに言葉を続けた。
――……変なの。まぁ、別に僕も大貫くんのこと全部分かってるわけじゃないけど、分かることが出来るとも思ってないけど。それでも信頼できるし、好きだなって思ってて。だから、えっと。大貫くんのこと眺めてれば、楽しくて。えぇと……、だから僕はね、それで精一杯で。その、ね? 大貫くんもてっきり、そうなんだろうって、思ってて。……でも、大貫くんは違うんでしょ? ……うん、違うんだよね。大貫くんはもっといっぱい抱えられるわけだ。僕はてっきり、花音さん一人を抱え込むだけで大変だろうな、って思ってたんだけど。
話をしながら、ちら、と間が視線を向けた先。大貫がこちらを見る視線が妙に柔らかさと甘さを含んでいるように見えて、些か居心地が悪くなる。そういう視線を向けられると、そわそわと落ち着かない。間は気恥ずかしさが募りながらも、己の思考を整理するために言葉を吐き出した。……今まではずっと、意図的であれ無意識であれ語らずにいたのだ。だから、せめて。今はきちんと喋るようにしたい。
間は大貫の手を握ってふらふらと揺らしながら、その後もぽそぽそと言葉を紡いでいく。
――そうは言っても、僕も同期だからちょっとくらいはね? 端に引っかかって、持ってもらえはするのかな、とか思ってて。でも、花音さんを取り零すくらいなら、僕は大貫くんに捨て置かれても良かったんだけど。うん、僕の代わりになる人くらい、大貫くんには、すぐに見つかるだろうなって。でもね? なんか、大貫くんのさっきの主張とかからすると、それは違うっぽくて。
大貫くんから信頼はされてるのはね、僕も分かっててね。でもそれは仕事で積み上げたものであって、まぁプライベートの僕にまで適用してくれることも、時にはあるだろうとは思ってたけど。でも、でも、えぇと……?
「……大貫くん」
訥々と語り続けた結果、逆に混乱したのか、間が弱りきった表情で大貫に視線を向けてくる。その様子に、思わず大貫が笑いを零すと、間が物言いたげな表情へと変わった。あれは「何さ、その笑い」といったところだろう。
(……あぁ、ダメだ。どう見たって可愛く見える)
大貫はそんなことを考えているとは、おくびにも出さないまま、間と繋いでいる手をゆるゆると揺らした。間の手は先程よりよほど温かい。
「つまりだよ、間」
「うん」
「君が私のことを信頼してくれていたように、私だって君のことを信頼していた。いや、今だって信頼はしている」
「うん」
「そりゃあの時は……まぁ、随分と激昂してしまったけれども。それは、その……まぁ、私は私で強欲というかなんというかな部分があったわけで」
「うんうん」
「……ともかくだ。私にとっては、あの時いたのが君だったからこそ、あそこまで激昂したとも言えるわけだ」
「……うん」
「間、君でなければ。あの教唆を引き起こしたのが君でなければ、あの時君があぁして私を振り回していなければ。流石の私も、もう少し冷静に最後まで対処できていた筈なんだよ」
その大貫の言葉を聞いて、ようやく間の中でカチリ、と何かが当てはまる。
「……あっ」
「えぇと、つまり。……つまり、大貫くんは、同期とか同じ班にいるからとかじゃなくて、僕が、えぇと……僕が『間光』であるから、大切で」
「うん」
「だから、大貫くんの中に、僕の……というか、その、」
「うん」
「『間光』のためだけの場所が、ちゃんと、ある?」
「……うん、あるよ。ずっと昔から、あったんだよ」
それを、大貫は当然間も分かっていると、そう思い込んでいただけで。
「そっか……。えぇと、それでつまり。つまり……」
「……うん」
「大貫くんは、最初からずっと。『大貫千春』は『間光』が大切だから、隣にいてほしい、と……思っている?」
「うん」
「花音さんは花音さんで大切だけど、」
「そうだよ」
「僕は僕で大切だし、そのための場所もきちんとある?」
「その通り」
「だから、その……『僕がいい』?」
「うん、そうなんだよ」
「……つまり大貫くんは、結構前から……僕が……えぇと、大切である……?」
「……ようやく分かってくれたのか」
大きく溜め息を付いてしまうくらいは許されたい、と大貫としては思うところだ。――けれど。
「……そっか。そうだったんだ」
その大貫の反応を見て、ふふ、と間が嬉しそうに笑うものだから。大貫は仕方がない気持ちになって、軽く間を小突くに留めたのだった。
いっぱいいっぱい言葉を尽くして語り合って、ようやく二人は一つダンスを踊るのでしょう。