その日、早番であった間が自分たちの班の部屋へと到着すると、部屋の電気は着いておらず、中には誰もいなかった。大貫は遅番であるのでともかくとして、後一人はいるものだとばかり思っていたのだが。そう考えながら部屋の電気を付けた間は、机の上にぽつりと置かれた封書を発見した。
「……」
間が無言で近寄った机の上には、表には達筆とは言い難いが下手でもない文字で『辞表』と書かれている。恐らく今日なのは、大貫が遅番で間が早番だったからこそなのだろう、という想定は付いた。間は小さくため息を付き、辞表を手に取る。
「あーあ、やっぱそうなったかぁ」
――刈野。
辞表が置かれているのは、大貫と間の後輩である刈野証人の席であった。
◆
『間さんは、尾北さんに対してやりたいことってあります?』
『……というと?』
間が、そう休憩中の刈野から間が問われたのは、数日前の出来事だった。あまりにも通常の雑談の流れで出てきた名前に、間は一瞬沈黙した後、意図を問い返した。尾北が入院してから、既に数年が経過している。その時間の経過の中で、刈野が尾北の名を間の前で出したのは、これが初めてだった。
『いえ、なんかふと思いついちゃって』
『刈野はこう……予想も付かないことをするね』
『それ多分、大貫さんが間さんに言いたい台詞ですよ』
『えぇ? そうかな。僕も大貫くんのことそう思う時あるけど』
『あぁそれは確かに……じゃなくて! 僕の質問答えてくださいよ』
間が話を流そうとしたことに気が付いたのか、刈野が話題を戻してくる。そのことに、逆に「ふと思い付いた」わけではないのだろうな、という確信を深めながら、間は僅かに思案した。
(やりたいこと……ね……)
間は、数か月に一度程度のスパンで、尾北に手紙を出していた。宛て先は間も当然把握しているからだった。手紙が宛先不明で返って来たことはないので、あちらに届いてはいるのだろう。尾北から返事がないのは、読んでもいないか、送るつもりがないのか、送ることを許されていないのかまでは間も把握をしていない。勿論、返事が欲しいわけでもないのだが。
手紙の内容は些細なものだ。主に刈野の近況報告。たまに大貫のこと。さらに稀に間自身のこと。季節の移り変わりに関することを書くこともある。間が最初に送った手紙こそ、後悔を綴ってしまったが、それ以降は近況報告に徹しているつもりだ。
……間は、自分でもどうして尾北に手紙を送り続けているのかは、あまり分からない。少なくとも直後は、尾北が死ななかったことへの安堵があったように思う。そしてそこから自分自身への後悔と、大貫に対する心配。さらに、刈野への心配。それだけだった。だが、今は。尾北に手紙を送ることで、自分自身の贖罪でもしているつもりなのかもしれなかった。
『思ったより熟考してくれるんですね』
『急に言われるとね。けど、特にはないかな……。……あぁ、いや、でも』
『でも?』
『花は、渡したいかもね』
『花、ですか』
『うん、花。別に何も含む意味とかはないけどね』
『……なるほどですね』
そう答えた刈野の表情は、間から見ても晴れやかだった。
◆
間との会話が切っ掛けだったのか、最後の一押しだったのかは、刈野にしか分からない。刈野が唐突に警察を辞めてしまったことだけが、事実だ。
「最近机の上、整頓してて大貫くんにちょっと褒められてたのにね」
手に取った辞表を机の上へと置き直し、机の引き出しを下から開けていく。中には貸与備品が全て綺麗に置かれていた。拳銃は、恐らく保管室に返しているのだろう。流石に持ち出しをするほど、刈野も大胆ではない筈だ。そうして順々に開けた最後。一番上の引き出しには、ぽつんとメモの切れ端が入っていた。
『お世話になりました。』
それだけが、辞表と同じクセの垣間見える文字で書かれている。そのメモの切れ端を間は手に取って、蛍光灯に透かしてみる。下書きをした様子はなし。フリクションボールペンで書かれたもので、書き直したということもないだろう。まぁそもそも、職務で使う筆記用具でフリクションボールペンなど、言語道断ではあるのだが。入りたての刈野が知らずに使って、尾北からこっぴどく叱られたことも思い出し、間は少しだけ笑う。
「お世話になりました、か。僕と大貫くん宛ては合計で十文字ね。一人あたり五文字かぁ」
ぺらりとひっくり返してみた裏にも、何も書かれてはいない。間はそこまで確認してしまうと、メモの切れ端を引き出しへと戻し。大貫に連絡を取るために、スマートフォンを取り出した。
お礼一言分くらいはちゃんとスペースがあったんだねぇ、という話。