「…………うーん」
ぺらりぺらりと資料を捲りながら、間は首を傾げる。悩むような声を出してはいるが、内容だけは音に上らせない。どこで何が聞かれるかわからないのだし。
――間にとって、尾北は尊敬できる先輩であり上司でもある。暴力団という存在を相手取って仕事をしていくことが、どれだけ危険かは間自身もこれまででよく分かっているからだ。それ故に。間は、ずっと己の疑念を解消する手がかりを探している。
それは、いつぞやかの職務中の出来事だった。その時は、尾北班全員で出動をしていたが、全員で手分けして犯人グループの確保をする必要があった。故に、間もまた単独で動き回って、隠れている者がいないか、持ち去られそうな物がないかの確認を行っていたのだった。その時、間の耳に鈍く重い音が飛び込んできた。ドゴ、と何かを――いや、間にも聞き覚えはある――人体を勢いよく蹴り飛ばす音。
(まさか仲間割れ……? それか、どっかのスパイでも潜り込んでたかな……)
そう考えつつ、音のする方向へと近寄り物陰に潜んだ間は、目の前で見た光景に小さく息を呑んだ。……尾北だ。尾北が、暴力団幹部と思しき男を、足蹴にしている。間が駆けつけた時点で、既に暴行を受け始めてから時間が経過していたのか、相手は抵抗する様子を見せない。それにも関わらず、尾北の暴行は止まる気配がなかった。
(どうしてだ?)
その光景を視界に収めながら、間は静かに混乱する。少なくとも、今この瞬間まで間は、尾北がそれだけの苛烈な暴力衝動を見せる男だとは思っていなかった。冷静で理知的で、真っ当な判断を行える清廉な人物。そう評していた。その認識が、今目の前で行われている光景とはあまりにもかけ離れている。
間は、ゆっくりと後ずさる。今ここで、尾北と顔を合わせたとして、どう動くべきかの判断が取れなかったからだった。そうして踵を返し、改めて己の職務に集中する。それが結論の先送りであることは、分かっていたけれども。
数十分後、班全員で集まった時の尾北は、先程間が見た光景など嘘であるかのように、いつも通りの様子だった。
間は、後日その時の記録資料を閲覧した、が。そこには尾北が暴力を振るっていたという記録はおろか、暴力を振るわれた犯人がいたという記録自体も残っていなかった。記録にあるのは、取り押さえの最中に怪我をしている暴力団員がいた、という事実のみ。記録からは、同士討ちや仲間割れとして処理されていることが窺えた。
そして、他の資料も見ていけば、尾北が参加している作戦の記録に同じような記述が時折混じっていることに気が付く。犯人負傷、犯人負傷、犯人重傷。だが、どれも暴力行為を働いた人物がいるような記録ではなく、事故もしくは身内同士のそれとしての記録ばかりだ。これが指し示すことは。
(つまり、尾北さんの行為を、揉み消した奴がいる……)
尾北もまた、この課に入って長い。彼の同期で上の役職に付いている者も、いることだろう。尾北自身は妹である花音のこともあり、ある程度か行動の自由が効く班長の座に留まっている、という噂は間も聞いたことがある。どちらにせよ、尾北の行為の隠蔽には、それなりに上の誰かが関わっている可能性はあるのではないだろうか。
(……けど。まだ、証拠が少ない)
間は、己の中で言い訳を施す。そう、間が見た尾北による暴力行為は一件のみ。以前の記録も、それを念頭に置いて読んだために怪しく見えただけ、という可能性は拭えない。そもそも確証がないままに、あれこれと口にするのは混乱の元だ。せめて、もう少し何かしら掴めるまでは、己の中で秘めておかなければ。
ただでさえ、尾北の妹の花音は、間の同期の大貫と交際しているのだ。勘違いで彼らの関係にヒビが入るようなことをするのは避けたかった。
(となると……、あんまり直接関わっていくよりは、話を聞いていきたいな……)
間はスマートフォンを取り出し、スリープを解除すると電話帳の中から目当ての人物の名前をタップした。そして通話ボタンを押す。
「……あぁ、尾北さん、こんにちは。急に連絡をしてしまってすみません。……えぇ、そうです。大貫くんの同僚で友人の、間です。この間はバッタリ鉢合わせしたので、驚きましたよね。……はい、実はちょっと、貴方のお兄さんのことで、お聞きしたいことがあって。短時間で構わないんですが、今度お時間を頂けますか?」
少なくとも当初の間くんは真っ先に二重人格を疑わなかっただろう、と思うのです。況してや、揉み消されているのであれば慎重に動くべきだと判断しただろうな、と。