狭間に春は訪れない

「…………、」
 間は泥のように重たい身体をベッドへと投げ出し、少し遠くで響くシャワーの音を聞いていた。身体は執拗に眠気を訴えているが、ここで意識を落とすとまた大変なことになると今までの経験から知っているので、どうにか耐える。最低限度の後処理は終えているので、間の身体に先ほどまでの行為の痕跡はない。だが、服を着直す気力もなかった間は、ごろりと身体を横向きにしサイドテーブル寄りに動かすと、そこに置かれているだろうペットボトルへと手を伸ばした。
「……んん、水……」
 ずりずりと引き寄せたペットボトルは、室内に放置されたままであったため、間の手に何ら冷たさは与えてこない。まぁ、そのくらいが丁度いいのだけれど。


 ――大貫と間の、どうしようもなく生産性のない関係が始まったのは、尾北花音が亡くなって一ヶ月経った頃合いだった。

 珍しくも酒の許容量を読み違え、かつてないほどに酔っ払った大貫の口からまろび出た言葉は、確かに、彼の中に巣食っていた思いに違いなかった。
『間……君が、もっと早く信以さんのことを告げていれば、花音は死ななくて済んだのに』
 どこかでそう思ってしまいながら、それでも大貫は理性で以て、その言葉を封じ込めていたのだろう。間が今の今まで、それに気付かなかったのがその証左だ。そして、大貫が奥底に沈めていたであろう思いを聞いて、間は何よりもまず「あぁ、確かにそうだな」と思ってしまった。故に。
『……うん、その通りだね』
 そう返してしまったのだ。
『……っ!』
 その時を境に、間違いなく大貫と間の関係の均衡は、崩れた。

(だって、本当のことだもんなぁ)
 ずっと尾北に対して、違和感が付き纏っていた。職務中の暴力行為とそれらの狡猾な隠蔽。品行方正な印象が崩れることのない尾北の不思議。それを知っていながら、おかしいと思いながら、遠回しに情報を集めて回っている内に、最悪の事態が発生したのだから。尾北の妹であり、大貫の恋人で会った花音の死が。
 マル暴の四人で犯人を捜そうとしていた時。その時は、間が情報を伏せ続けたことで、尾北を自害させることなく、誰も犠牲になることなく、事は終わった。だが、そうして情報を間が伏せ続けていたからこそ、花音は死なねばならなかったのだ。そう詰られたとして、間はけして反論など出来ない。ましてや、詰ってくるのが大貫であれば、尚のこと。
 だから、こうして大貫と間は馬鹿みたいな関係を始めてしまった。大貫が間を抱いて、その憎しみを発散させる、だなんて不毛なことを。怒りがあっても、職務に忠実で冷静な大貫は、間を殺すことなど出来なかった。いっそそこまで堕ちることが出来たら、楽だろうに。そういう風にあることが出来なかったから、大貫は定期的に気持ちのやりようがなくなったタイミングで、問答無用で間をラブホテルへと引っ張り込むのが最近の常となっていた。間が、その誘いを断ったことは一度としてない。いつだって、引きずり込まれるまま着いて行き、抱かれるのを享受するのみだ。……どこかで歯止めをかけるべきだと、間は分かっては、いるのだが。
(解決の糸口が分からないから、どうしようもない)



 そうこうしている内にシャワーの音は止まっており、スリッパの音が間の元へと近寄ってくる。間の元まで歩み寄ってきた大貫は、間が瞼を開けているのを確認した上で、話しかけてきた。こうして、ぐしゃぐしゃに抱き潰す癖に、大貫は自分が目を離した隙に間が死んでしまいやしないかと、怯えているのだ。だから、大貫が確認しにくるまでは、間も眠ることなく瞳を開けて待っている。
「今、何を考えているんだい」
「……大貫くんのこと」
「どうだか」
 問うた割に、冷え冷えとした声で反応が返ってくる。間は気に留めることなく、大貫の方を見上げた。大貫の毛先から雫が滑り落ちている。ドライヤーの音はしなかったので、乾かしていないのだろう。ぱたぱたと間の身体の上に降ってくる雫の冷たさを、間がぼんやりと受け止めていると、大貫の手が横向きになっていた間の身体を仰向けに転がした。
「……また?」
「君に拒否権があるとでも?」
「いいや、ないよ。知ってる。単に、君が疲れていやしないかと思って」
「別に。私の限界くらい、私が分かっているよ」
 声はぴしゃりと間の言葉を跳ねのけ、指が間の下腹部へと伸びる。明日の予定は、大貫が非番で間が遅番だ。
(……まぁ、大丈夫かな)
「っ、」
 そう考えながら、再びナカに侵入してきた指に間は少しだけ息を詰める。いつだって、この瞬間だけは慣れない。それでも、つい数十分前まで大貫の物を受け入れていた身体は、容易く快楽を拾い始めた。
「ん、っ……は、……ッ!」
「……、」
 大貫は行為の最中、誰の名前も呼ばない。間の名前すらも。それで構わないと、間は思っている。


 何故、だなんて考えてもキリがない。事実はいつだってシンプルだ。「間光は大貫千春に恨まれている」というその事実だけを、間は理解している。今まで築き抱いてきた信頼があっても、否、あるからこそ駄目なのだと間は分かっている。だから、こうして大貫からの行為を受け入れているのだが。……何故だか、大貫は時折泣きそうな表情を垣間見せるのだ。
 間はあの時、何も取り零してはいない。間はあの時、何も失ってはいない。あの四人の中で唯一、間だけが何も奪われることなく終わってしまった。だから、今ここで間が大貫から奪われるのは、正当な対価なのだから。大貫が気に病むことなど、何もないのに。
(いつか、大貫くんだけは、救われるといいんだけど)
 そんなことを考えながら、間は大貫が己の顔を見なくていいように、首元へと腕を回し自身の頭を彼の肩口へとうずめた。



 間は、罰を受けると己で決めた。それは、大貫に対する情の証明に他ならなかった。

間くんはそれが一番良いやり方だと信じて疑っていない。