ガヤガヤと周りの席からの喧騒がうるさい居酒屋で、間は「とうとうこの日が来たか」という予感に襲われていた。
「で? 急にどうしたのさ、大貫くん」
酒自体はさして強くないものの、酒のツマミの類を好む大貫は、ありとあらゆる居酒屋を開拓し、良い店を知っている。今日訪れたのも、そうして大貫が連れてきた店であって、間はちびちびと最初に頼んだビールを口に運びながら、大貫が口を開くのを待っていたのだった。大貫は最初に注文した茄子の揚げ出しを完食したところで箸を置き、ようやく口を開いた。
「まず、真っ先に君に報告しようと思って」
「……それはそれは。大貫くんは友人思いだなぁ」
間は、ぐ、とみぞおちの辺りが痛くなったような心地に襲われたが、堪える。大貫の僅かに照れの交じる表情。そして口を開いて告げられる言葉。
「……実は、恋人が、出来たんだ」
「…………そっか」
その長い沈黙が、「尾北花音の件を乗り越えたことへの感慨深さ」だと、大貫が感じてくれると良いのだが。
◆
間は、同期の大貫のことが好きだった。
「ただいまご紹介いただきました、新郎の友人の間と申します。大貫くん、……さん、ご結婚まことにおめでとうございます。ご両家の皆様方へも、心よりお祝いを申し上げます。本日は新郎のご指名によりこの場に立たせていただいておりますが、彼とは随分と長い付き合いとなります。同期であり、同じ部署に配属された身であり、友人としても長年肩を並べてきました」
その想いを伝えようと思ったことは、一度もない。大貫が向けられる信頼が心地よかったのと、自分からも信頼を手向けるのが楽しかったからだった。
「大貫くんは、大変真面目で冷静で、それでいて情熱を持った男です。職務中も、僕は大貫くんに度々助けられてきました。彼と肩を並べられたことは、僕にとっても非常にありがたい経験だったように思います。そんな彼ですが、友人として……さんにお伝えしたいことが一つだけあります。彼は……ジョークが、とても、下手です。僕も随分と指摘を続けてきましたが、ついぞ治りませんでした」
……それでも、少しだけ期待をしなかったといえば、嘘になる。あの日、花音を失った大貫が、彼女の存在を胸に刻み、それ以降は新しく大切な人を作らないのではないか、なんて。
「まぁ、それ以外は友人としてもとても誇らしいくらい、素晴らしい人物ですので安心してください。大貫くんと……さんであれば、あらゆる困難を乗り越えられるものと願っております。それでは、簡単ではございますが、お二人のこれからのご多幸を願い、祝辞とさせていただきます」
それでも、間は確かに嬉しく思ったのだ。大貫が新しく愛する人を見つけられたこと。それを、真っ先に間に伝えてくれたこと。それだけの信頼を、変わらず向けてくれていること。
……だから、間は全てを黙っておくことを決めた。情報を飲み込むことは得意だ。あの時だって、ずっと重要な情報をギリギリまで伏せていられたのだから。今度は、それを墓まで持っていけばいいだけだった。
『それでは続いて――……』
司会の言葉を聞きながら、席に戻った間はグラスに注がれた水を飲み干した。冷たい水が喉を滑り落ちていく。そうして、何度だって間は想いを飲み込んでいる。
(綺麗だなぁ……)
そう考えながら、間は持ち込んだデジタルカメラを高砂の方へと向けた。大貫と花嫁の写真を一枚。……そして、大貫だけの写真を一枚。撮ったカメラはすぐさましまい込む。余興の方に全員意識が向いているから、誰も気付きはしないだろう。
「……」
そうしてまた、間は水を飲み込んだ。
◆
引き出物として渡されたバウムクーヘンは、美味しいと大層評判のいい店のものだった。パッケージに書かれたブランド名を見ながら、間は感心する。甘いものにはとことん詳しくない大貫だ。恐らく、相手が選んだのだろう。それかプランナーがアドバイスでもしたのか。
「大貫くん、酒のツマミとラーメンしか詳しくないからなぁ」
笑い声を一つだけ漏らし、間は小さくあくびをした。自宅に戻ってきた途端、襲いかかってきた疲労感に小さく溜息を付きつつ、箱を開ける。そして包丁で綺麗に八等分すると、フォークでその内の一欠片を刺した。口の中に上品な甘さが広がった。しっとりとしていて、美味しい。
「……これからも、アドバイスしないと大貫くんやらかしそう」
幸せそうにしている大貫を見るのが好きだった。楽しそうにしている大貫を見るのが好きだった。ジョークがとことん下手な大貫が好きだった。
花音と付き合い始めたことを聞いた時も寂しくはあったが、大貫が照れくさそうに笑うので「じゃあいいか」と思ったのだ。だからこそ、尾北の違和感を突き止めたかった。それが巡り巡って、大貫に悲しいことをもたらすのであれば、どうにかしてやりたいとそう思って。――その行動は、あまりにも何もかもが遅く、間に合わなかったのだけれど。
『君は、私を信じるかい?』
「……うん、信じてる」
随分と昔に感じる、あの言葉を脳裏でなぞり、また答える。間は何度問われても、同じようにそう答えるだろう。間は、大貫を信じている。大貫も同じように、間を信頼してくれていると、理解している。その信頼にずっと、応えたい。そのために必要であれば、間は口を噤むことを選べる。
「大貫くん、大好きだよ」
間はその言葉を、最後の一欠片と同時に、飲み込んだ。
大貫くんは、間くんへの信頼と友愛で以て、真っ先に報告してくれました。