ラスト・パープル

 ――カンカンカン。カンカンカン。

 鉄で出来た非常階段を二人で登る音。二人が手を繋いだまま横並びになっても十分に幅の広い階段は、雨風にさらされ続けたことでペンキの塗装は剥げ、あちこちにサビが浮いている。だが、二人ともがそれを気にすることなく、ゆっくりと階段を登り続けている。

 ――カンカンカン。カンカンカン。

 時刻は十八時。陽は沈み、夜の帳が訪れようとしていた。



 『脱落』による入れ替わりが頻繁に起きている割には、候補生たちの人間関係は妙にさっぱりしている気がする、と常々東峰は感じていた。同じグループの者が脱落したあと数日は部屋から出てくる様子もなかった者が、暫くすると平然とした表情でレッスンに参加している、ということが頻発しているからだ。勿論、気持ちを切り替えた、そう言われてしまえば納得せざるを得なかったが、いかにも後に引きずりやすそうなタイプ――東峰もあまり人のことは言えない――であっても、少しすれば他の仲間達と笑い合っていることが少なくない。
 少なくとも、東峰は未だ真中と北条の脱落から完全に気を切り替えることなど出来ていない。たとえ、真中の死亡と北条の脱落から、ゆうに一ヶ月以上が経とうとしているとしても、だ。あいも変わらず処方されている睡眠薬の入った袋を、ぎゅっと抱え込みながらとぼとぼと寮の中を歩いていた東峰は、レッスンルームから出てきた西藤と鉢合わせた。
「東峰か。外出?」
「あっ、西藤さん……。はい、そうです……。用事が、あって。西藤さんは、レッスンをされてたんですね」
「まぁ、活動の一時休止とはいっても、休んでいるわけにはいかないしさ」
 一時的な立場保留となっている東峰とは違い、Voyageで二番手であった西藤は一時の活動休止を挟んだ形になっているようで、次の流れが伝えられているらしい。そこでストイックに努力を積める西藤の在り方を、東峰は尊敬していたし、同じくらい気が引けていたのだった。

 そうして、そのまま日常会話へと流れていく内に、東峰の中にはじりじりと嫌な予感が募っていっていた。西藤の言動に、どこか違和感がある。言葉選び、視線の向け方、話題に出す……相手。
(…………まさか、)
 ごくり、と息を呑み、東峰はどうか違って欲しいと願いながら、言葉を紡ぐ。
「あの、……西藤、さん」
「なんだよ、東峰」
「ぼくたちって、ですね……いえ、あの、Voyageって……」
「うん」
「何人、グループ……でしたっけ」
「はぁ? また妙なこと言って……僕たちは、」

「三人グループだったろ」
「……ぁっ」
(あぁ……あぁ……。きっと、罰なんだ……)
 それでも、それでも。と、そう思いながら、東峰は悪足掻きのように言葉を続ける。せめて、せめて。
「西藤さん、まさか……真中くんのことも、……北条さんのことも、……忘れ、ちゃったんです、か?」
「……東峰、今、なんて?」
 ぱちり、と赤い瞳が瞬く。首を傾げてみせた西藤に、東峰は己の喉がひゅ、と音を立てて止まったことを自覚した。
「……っ」
「東峰!?」
 その後、東峰を心配してくる西藤の呼び掛けを振り切るように、東峰は踵を返し、靴を履き替えると走り出した。


 ざりざりと地面をスニーカーが擦る。走り出して少しして、東峰の喉からは、ヒューヒューとした音が漏れ始めていた。それでも、少しでも遠くへと離れたくて、駆けて、駆けて、駆けて。大きなトネリコの樹の下で、東峰はとうとう崩れ落ちた。ひゅぅひゅぅと息を荒げたまま、東峰の瞳に涙の膜が張っていく。

 ――生き残った者は、脱落した者を、忘れていくのだ。

「どうして、……どうして!」
(嫌だ、嫌だ、嫌だ。忘れたくない……! たとえ、ぼくが、ぼくたちが、生き残りたいとそう思って、選んで、そうしたとしても!)
 それは、東峰たちが背負い、覚えておくべき咎だ。北条を断頭台に送り込み、その屍の上で踊るとそう、覚悟したのであれば。忘れることは、赦されない。その筈で、あるのに。
(北条、さん…………真中くん……)
 身体を丸めながら、東峰もまた、気が付いていた。ほとりほとりと、手のひらから溢れていくように、あの日の『オーディション』の記憶が朧気に、なっていること。そして、あの日、確かにまっすぐと見つめた筈の北条の顔が、思い出せなくなっていることに。


「涼!? こんなとこで何してんの!?」
 慌てた声と共に身体を揺さぶられたことで、東峰は自分が意識を失っていたことに気が付いた。涙が乾いたことでパリパリとする目を必死で開き、見上げた先。汗を垂らした南部が心配した表情で屈み込んでいる。
「西藤さんから、急に涼が飛び出していったって聞いたからずっと探してたんだよ、オレ。大体なんで、」
「……南部くん」
「……涼?」
「南部くん。ぼくを、……ぼくのことを、」
 いつだって東峰は仮説を組み立て、その証拠を積み上げることで、結論を出している。
「ぼくを、『本当に"東峰涼"か?』って問い詰めたのは、……いつ?」
 急な東峰の台詞に、南部が狼狽したような様子を見せる。実際、あの時から「この話題」を東峰が持ち出したのは、初めてのことだったからだ。
「いつ、って……この間の、オーディション……でしょ?」
「……うん。それは、……なんの、オーディション?」
「何の……? …………えぇと、確か……真中が……殺されて……。……北条さんを、オレたちで、指名した……時」
 うろうろと南部の視線は彷徨いながらも、どうにか真中と北条の名前は絞り出される。だが、南部の瞳の揺れを見ていれば、それが本当にギリギリで残った情報なのだと知ることが出来た。
「……ねぇ、涼。もしかして」
「うん……。うん……、西藤さんは、もう……」
 北条さんと真中くんのこと、忘れちゃった。その言葉を口にすることが出来ず、東峰は俯く。本来であれば、東峰と南部も忘れていっていた筈なのだろう。現に、二人ともが思い出すまでに時間が必要になっている。だが、二人だけに共通すること。たった一つのイレギュラー。

『お前は、本当に"東峰涼"なのか?』

 あの議論の場で、南部が東峰を"東峰涼"ではない別の誰かだと追及したこと。それがよすがとなって、東峰と南部はかろうじて、オーディションと北条たちのことを記憶に留めることが出来ている。……だが、それもいつまで続くかは分からない。東峰の中で、真中の星の輝きも、北条の落ち着いた夜もまだ手元にある。けれど、それはいずれ奪われるものだ。
「……南部くん」
 ゆぅっくりと、俯いていた視線を上げ、東峰は南部に呼びかける。南部は、東峰の表情を見ると、少しだけ顔を歪めた。
「あのね、」



 ――カンカンカン。カンカンカン。

 鉄で出来た非常階段を二人で登る音。二人が手を繋いだまま横並びになっても十分に幅の広い階段は、雨風にさらされ続けたことでペンキの塗装は剥げ、あちこちにサビが浮いている。だが、二人ともがそれを気にすることなく、ゆっくりと階段を登り続けている。

 ――カンカンカン。カンカンカン。

 時刻は十八時。陽は沈み、夜の帳が訪れようとしていた。

「いいよ、涼」
 東峰から告げた言葉に、最終的に南部は頷いた。それが東峰を哀れんだものか、"東峰涼"の面影を追うためなのかは、もう東峰にとってどちらでも構わない。あの日、糾弾された。それでも、東峰は何も応えなかった。それだけが南部と東峰の間にある「事実」だ。
 じとりとした温い空気の中を歩きながら、東峰は今まさに繋がれているしっとりと温かい手を想う。階段を登れば登るほど、東峰たちの視界を染めていくのは、鮮やかな紫色の空だ。
(屍の上で踊る覚悟すら、奪われるのであれば)
 ……本当は。本当に、兄のためにアイドルを目指すのであれば。東峰は、それを悲しみながら受け入れてでも、歩むべきなのだろう。けれど。けれど。
『……あぁ』
 通告に、一つだけ出た溜め息。最後に、東峰へと向けた視線に、怒りも憎悪もなかった。その、視線を、顔を、記憶を、罪を。失うくらいなら。

 ――カンカンカン。カン、カン。

 登り終えた階段の先、フェンスすらない屋上を南部と東峰は無言で歩く。紫色の空は、じわじわと端から濃紺へと染まり、ちかちかと銀色の星が瞬き始めている。
「……っと」
「涼、危ないじゃん」
「ご、ごめん……」
 ふらついた東峰を南部が茶化し、東峰が申し訳無さそうに謝る。そして、一瞬の沈黙。
「……ねぇ、南部くん」
「なんだよ、涼」
「ぼくと、……"涼"といてくれて、ありがとう」
「……こっちこそ。"涼"」
 手は繋いだまま。赤と青が紫に溶けて。





 ――アイドル候補生・南部幸太郎 脱落。
 ――アイドル候補生・東峰涼 脱落。


「今度の脱落者のメンバーカラーって、」

 銀色の星だけが、今や孤高のまま、輝いている。

南部くんと東峰くんの間に存在する"東峰涼"が楔として機能しているの、いいな、と思います。